
「幸福な犠牲者」たち
MizoguchiTsubasa 작성
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1994年から2006年までの合計87回にわたって<流行通信>誌の中で連載されてきた「着倒れ万丈記 HAPPY VICTIMS」
2008年にこれをまとめたものが一冊の書籍として刊行されていて、カルト的な人気を誇っていた
これはその当時のリマスター復刻にあたる
写真家はTOKYO STYLEでお馴染み
混沌を切り取る、都築響一
HAPPY VICTIMS /幸福な犠牲者たち
CHANELにGUCCI、HERMES
これらの高級既製服と呼ばれるものは華々しい生活を送る富裕層のために作られたものだろうか
本来の答えは、YESなのだろうな
それが健全というもの
しかしながら、本当の意味でこれらに宗教的に心酔していった収集家たちの生活水準って、みんながみんなそれに比例するようなものだっただろうか
このオンラインストアに行き着いている皆様なら、その答えはきっと想像に容易いとは思うが
VIVIENNE WESTWOOD
NEMETH
MARTIN MARGIELA
そう、こうだったよね。
服が好きすぎて、それが全てで
そこに全てを注ぎ込んで全力投球してる
食費削って、服買ってる
そんなこの世界のリアルに対して
「幸福な犠牲者」たちというタイトルをつけて切り取ったのが
写真家・都築響一
皮肉といえばそれまでだけど、そこに愛がある作品集なんだ
HERMES
この和室と古いキッチンとHERMESオレンジの対比は闇深くて好きだなぁ...
これは祖母に聞いた話だけど、僕の大叔母さんはHERMES好きで、正にこういう人だったらしい
HELMUT LANG
JEAN PAUL GAULTIER
美意識が暮らしにも現れているタイプってところだろうか
構図がなんとも美しいですね
アナスイ
ジェネラル・リサーチ
見開きでそれぞれの"犠牲者"が紹介される構成
右側には、彼らの心酔したコレクションと生活空間の写真
左側には彼らの簡単な紹介文と、1日のスケジュールが記録されている
その多くは決して富裕層ではない
SNS登場以降の現代は服飾学生に好きなブランドを聞くとファスト・ファッションの名前が返ってくるような時代だ
このタイミングでの復刻というのが、なんとも感慨深い
行きすぎたその先にあるのは、もしかしたら破滅かもしれないけど
そのギリギリの経験値が財産になるんだよな
そこを通ってきた人の説得力が魅力的だったりするんだ
若い人にもぜひ手に取ってもらいたい一冊
都築さんの直筆サイン入りです
僕もそれなりに高い服を売っている訳だけど
それって所謂お金持ちに向けて選ぶような”それ”ではないんだよね
残念ながら、
そういうわかりやすいビジネスを好きではいられなかった
溝口
ーあとがきー
Text:Kyoichi Tsuzuki
文章:都築 響一
『HAPPY VICTIMS 着倒れ方丈記』はもともと、今は亡きファッション誌『流行通信』に1999年から2006年まで87回にわたった連載が、2008年に単行本になったもの。日本では2018年にいちど復刊されたが、今回のapartamento版はオリジナルから17年ぶりということになる。
『HAPPY VICTIMS』はこれまで国内だけでなくフランス、ルクセンブルク、メキシコなど、海外の美術館やアートイベントでも展示され、プリントも収蔵されてきた。美術館で展覧会を開くと、オープニング・パーティのほかにギャラリートークというのがたいていある。拙い英語で説明しながら参加者と一緒に会場を歩くわけだが、たとえばパリのおしゃれなアート・ファンたちに、分不相応なブランド・ファッションまみれの日本の若者たちがどう映るのか不安な気持ちで話してみると、いちばん多かった感想は「理解できない(冷笑)」ではなく、「わたしの友達にもこんなひといます!(爆笑)」なのだった。『HAPPY VICTIMS』の前にTOKYO STYLE(2024年にapartamentoから復刊)をアメリカやヨーロッパで披露したとき、日本人の狭苦しい住居をバカにされると思ったら、「若いころの自分の部屋そっくり!」という感想がすごく多かったのと一緒で、それは国境を超えた都市型生活というものへの自分の感覚を拡張してくれる体験でもあった。
ただ、取材を始めたころからすれば四半世紀経ったいま、もういちど『HAPPY VICTIMS』がつくれるかというと、うまくできる気がしない。
あのころはいまほど、どこにでもユニクロやGAPやZARAはなかった。それなり、そこそこの服が、日本中どこでも買えるという時代でなかったころを思い返すのは、もう難しいだろう。ファストフードがなかった時代に、僕らがどんなふうに食べる場所を選んでいたのか、思い出すのが難しいように。『HAPPY VICTIMS』はファストファッションが地球征服を成し遂げる、ぎりぎり直前の時代だった。
そしてまたあの時代はハイファッションとストリートファッションが厳然と区別されていた、最後の時代だったとも思う。
かつては「パリコレ」というものがあって、シーズンごとの流行色やスカートの長さが決まり、それが1年、2年という時間を経て世界の隅々に拡散していった。ぜったい手に入らないけれど、有無を言わせず美しいオートクチュールやプレタポルテの世界観があって、それは庶民の普段着とは別の場所で輝く衣裳だった。
それがいつのまにか「ストリートで生まれたものを上手にブランディングしていくのがハイファッション」ということになっていく。ブランドとストリートの上下関係が逆転とまでは言わなくても、関係のありかたがまったく変わってしまったのは、僕の記憶では2001年にルイヴィトンが発表したスティーブン・スプラウスとのモノグラム・グラフィティ・コレクションが最初の象徴で、ファンには申し訳ないが、ストリートを彩るグラフィティのパワーに比較して、あのどうしようもなくかっこ悪いデザインこそが「ブランドの終わりの始まり」に見えたのだった。
いまや時代感覚のずれた老舗メゾンが人種差別的な商品や発言でバッシングされ、「VOGUE」よりも「DIET PRADA」のようなSNSの発信源に業界人ですら依存し、ファッション雑誌はますます売れず、ひとはそれぞれ好き勝手な服を着るようになって、あからさまなブランドよりも「ほかのだれも着ていないTシャツ」のほうがオシャレとされるようになって・・・この四半世紀にファッション・デザインは、ひとつの中心を持たないまま無限に拡散していく文化現象になっていった。
いまもこれからも、素晴らしいファッション・デザインはたくさん世に現れるだろう。でも、なにかがちがう気がするのは、これまでのファッションがデザイナーから消費者への一方通行的な流れだったのに対して、これからはもっと相互に行き来し、補完しあう関係になっていくはず、と僕には思えるからなのかもしれない。
そしてまた僕らはいつの時代にも「幸せな犠牲者」だ。その対象がレコードなのか本なのか、クルマなのか服なのか、その程度の差異でしかない。千冊本を持っていれば賢いけれど、千枚服を持っているのは低俗、なんてのは世間が勝手に決めた判断基準に過ぎない。
「断捨離」とか「むやみな消費の戒め」とかがもてはやされる時代にあって、もし本書に登場してくれた着倒れ君たちが眩しく見えるとしたら、それは君がこころのどこかで「バランスの取れた暮らし」の凡庸さ、退屈さに気がつき、苛立っているからにちがいない。